Episode 09
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*コラムは「交通界」様のご厚意で転載させて頂いております
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From LA to Europe
FM革命 前夜の記憶
1985年秋、半年間のアメリカ留学から帰国した僕は、師匠である朝日放送テレビ編成局チーフプロデューサーの仲川利久(リキュウ)さんの舞台活動に音響スタッフとして参加していた音響クリエイティブの会社の社長に誘ってもらい、契約社員として働くことになった。
その会社の社長は堀江正さんというのだが、さすがにリキュウさんのスタッフを務めるだけあって「只者」ではなかった。堀江さんは「PA(音響)技術者」なのだが、日本のPAの頂点に君臨する人だったのだ。大阪が誇るコンサートホール「フェスティバルホール」の音響監督を長く務めただけでなく、日本PA技術者協議会(現・日本舞台音響家協会)の理事長職も務めた日本のPA技術者のカリスマだった。
その堀江さんがフェスティバルホールを退職して音響クリエイティブの会社を設立したのが1984年のこと。この年が「甲子(きのえね)」の年であったことから、会社名を「株式会社 甲子社AVC」としたのだそうだ。甲子社はコンサートなどのイベントの音響設計だけでなく、イベントそのものの企画制作もやろうとする会社で、僕はそのスタッフとして、甲子社が受注したイベントごとに契約で現場管理をすることになった。
その甲子社AVCには鈴木政男さんという専務取締役がいた。鈴木専務は神戸にあるレコーディングスタジオ「阪神ライブレコーディング」の社長でもあり、甲子社設立に当たって出資をしていた。阪神ライブはレコーディングスタジオの他に中継車両を持っていて、コンサートなどの公演の外録なども請け負う会社だった。スタジオは音楽録音スタジオとラジオ番組収録スタジオがあり、ラジオスタジオではラジオ関西のCM音源などの制作とラジオ番組の制作も手掛けていた。
神戸のスタジオに仕事で出向いたとき、ちょうどラジオ関西の番組の収録をしていたこともあって、鈴木専務(神戸では社長)にアメリカのラジオ事情について、日本のラジオとの違いも含めて僕の感じたことを話してみた。そして、アメリカで録音してきたKIIS-FMのテープを聴かせて「こんなラジオ放送が日本でも出来たらカッコいいですよね」と話してみたのだ。
鈴木さんによると、そもそも日本の電波管理が異常に厳しく、放送局の数も増えないことが放送そのものの「活性化」を阻害している面があるのだが、総務省がその方針を変更し、都道府県ごとに民放FM局を設置する方針となったそうだ。その先駆けとして、神奈川県に「FM横浜」が開局し、首都圏で聴くことができる2局目のFM局として、FM東京との差別化を図っているとのこと。
「秋山くん、これから日本のFMはドラスティックに変わるで」と鈴木さんは目を輝かせて言った。
そのFM横浜では、ロスアンゼルスの人気FM局であるKIISのトップDJのリック・ディーズの番組を購入して、毎週放送されていた。僕が感動したKIISの放送がFM横浜でオンエアされていたことは、嬉しくもあったけれど、「こういうのを日本で放送できたらいいのに」という想いがあったのでそれをFM横浜で実現したという事実に「先を越された」という悔しさも感じていた。このときまで、自分がラジオ番組の制作に関わるなど全く想像していなかったのだが、僕の中でFMラジオ放送に対する並々ならぬ意欲が湧いていた。そんなとき、鈴木さんがとんでもないことを言い出した。
「秋山くん、ヨーロッパに行こうや。今からKIIS-FMの番組を輸入するなんて二番煎じをやっても仕方ないし、ヨーロッパはまた手付かずやからな」。
鈴木さんのプランは、ヨーロッパのFM局のリサーチのために渡欧し、出来るだけ多くの国の、出来るだけ多くのFM局を訪問し、日本への番組提供の意思を確認して、サンプルとなる番組の録音テープの提供を受ける。それらを資料としてまとめて、日本のFM局や広告代理店にセールスを掛けていく。「これはビジネスになるかどうか分からない。しかし、我々の未来に対する投資やと思ってやれへんか?」。
「やれへんか?」って言われても、まだ駆け出しの僕にそれを実現する方法なんて、全くイメージ出来なかったのだが、鈴木さんはどんどん計画を進めて行き、1987年3月に1カ月間のヨーロッパFM局巡りの旅が実現したのだった。
鈴木さんと僕ともう一人、東京のホテルなどに配信する外国人向けの有線放送「KTYO」のプロデューサーであり、DJだったマーク・ヘーゲンというアメリカ人と3人での渡欧となったのだ。僕は1961年(昭和36年)生まれ、鈴木さんは1949年(同24年)生まれ、そしてマークさんは1937年(同12年)生まれ。奇しくも「丑年トリオ」がヨーロッパに旅立つことになった。
思えば、僕がアメリカから持ち帰った4本のカセットテープが僕をヨーロッパに導くことになったのだ。
Continued
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