Episode 05
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*コラムは「交通界」様のご厚意で転載させて頂いております
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The rerations that makes Paints
思いもよらない関係性に
朝日放送テレビ編成局番組企画部チーフプロデューサーの仲川利久氏と出会いは、僕にとってとても大きな「転機」になったと思う。仲川さんの名前は「としひさ」さんと読むのだが、関わる人たちは「リキュウさん」と呼んでいた。「エンマ大王の大忘年会」の公演が終わって1983年12月半ば、僕はリキュウさんから「朝日放送に来るように」と呼び出しを受けた。
当時、大阪市大淀区(現在の北区)にあった朝日放送本社の7階は「テレビ編成局」のあるフロアで、そこはテレビ局の中枢と言える。その中の「番組企画部」のエリアに行くと、リキュウさんのデスクがあった。
「秋山くん、先日のオペレッタはボランティアでやってもらったが、今度はちゃんとギャラの出る仕事だ」と、リキュウさんはいつものようにニッコリ笑って言った。僕は事情が分からぬまま「7階大会議室」に連れて行かれたのだが、今回呼び出されたのは驚くべき事情だった。
東京のキー局である「テレビ朝日」の看板番組とでもいうべきものに「石原プロモーション」製作の「西部警察」という刑事ドラマがあった。石原裕次郎や渡哲也、舘ひろしなどが出演する超人気番組だ。当時放送中だった「西部警察Part III」で全国縦断ロケというのを実施しており、翌年の春にいよいよ「石原軍団」が関西ロケに乗り込んで来るというのだ。朝日放送はその関西ロケの受け入れ局となり、その担当プロデューサーにリキュウさんが選任されたということだった。僕がリキュウさんに呼ばれたこの日は、テレビ朝日、朝日放送、そして石原プロの担当者の「顔合わせ」ミーティングの日であり、その会議に出席することになったというわけだ。
エンマ大王のときも「唐突」に話が来たのだが、今回も事前情報が全くなく「西部警察関西ロケ」のスタッフになってしまった。顔合わせミーティングの出席者は、テレビ朝日、朝日放送、石原プロの他、ロケに関わる各社のスタッフなど総勢で20名ほどだった。僕はその中で唯一の「学生」でありながら「私のアシスタントをしてくれている秋山くんです」とリキュウさんから紹介されたのだ。全く状況についていけないまま会議は進み、年明け早々に行われるロケハン(ロケーションハンティング、つまりロケ地候補地を実際に見て回ること)に僕も参加することになっていた。そんなわけで、1984年の年明けから僕は頻繁に朝日放送に出入りするようになった。
父たちが経営する大丸タクシーは朝日放送と契約関係にあることは僕も知っていたが、朝日放送の大判のタクシーチケットの裏面に「契約タクシー会社一覧」というリストがあり、20社くらいのタクシー会社が名前を連ねているのだが、大丸タクシーはその筆頭に書かれているのを知って、驚いた。朝日放送本社の隣にはその系列会社である「ホテルプラザ」があったのだが、その中に「大丸タクシー・ホテルプラザ営業所」があり、リンカーン・リムジンとリンカーン・タウンカーの2両がハイヤーとして配置されており、常駐の社員までいたのだ。僕はこのとき、タクシーに関して「ズブの素人」だったわけだが、タクシー会社の在り方って、実は非常に多様なのだと知った。タクシー業界にあっても「クリエイティブ」であることが可能なのかも知れないと、漠然と感じたのだった。
西部警察関西ロケの事務局にいた各社のスタッフの人たちとも親しく話すことが出来るようになった頃、あるスタッフから「秋山くんのお父さんはどんな仕事をしてはるの?」と聞かれたことがあった。僕がウチの家業が大丸タクシーなのだと言うことを伝えると、そのスタッフは驚いたようにリキュウさんに「仲川さん、秋山くんのご実家、大丸タクシーなんだそうです!」と伝えた。するとリキュウさんは「…そうだよ、秋山だよ。大丸タクシーは秋山さんだ!」と驚いたような声をあげた。
「そうか、キミは大丸タクシーの秋山さんの息子さんか。それならキミのお父さんは『絵』がお好きだろう」と、リキュウさんは続けた。
1973年ごろ、リキュウさんは大佛次郎の歴史小説「天皇の世紀」のドキュメンタリーを制作した。その小説が朝日新聞に連載されたときの挿画を描いた洋画家の中川一政画伯のものを番組のタイトルバックに使おうと、中川画伯に打診したところ「原画は大阪の秋山さんが持っている」と言われ、それが朝日放送と契約関係にあるタクシー会社の経営者であると知り、無事に原画を借り受けることが出来たのだそうだ。
朝日放送と大丸タクシーはいろんな意味で「親密」な関係を持っていたようだが、僕は僕のレベルで朝日放送といも寄らぬ関係を作っていくこととなった。
Continued
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