Episode 01
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*コラムは「交通界」様のご厚意で転載させて頂いております
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Wave from Anotherculture
クリエイティブ→タクシー業界の激震
1988年12月31日付で、僕は東京で勤めていた音楽・ラジオ番組の制作会社を退職した。1989年の正月は東京のアパートを引き払って大阪に戻るための準備をするのんびりとした日々を過ごしていたのだった。
当時、僕がプロデューサーとして手掛けたラジオ番組はいくつかあったが、東京エリアでオンエアを聴くことが出来たのはエフエム横浜のものだけだった。数日のうちに大阪に帰ることになる。自分の手掛けた番組のオンエアを実際に聴くことができる最後のチャンスが1月7日の土曜日の午前8時に放送される「Wavefrom Cote d’Azur」という番組だったので、それを目覚まし替わりにしようとタイマーを掛けていた。しかし、タイマーが作動してラジオから流れてきたのは聞き慣れないクラシック音楽だった。違和感を覚えて僕は飛び起きた。
「放送事故か?俺の番組が放送されていない!なんでや?」
実はそれは放送事故ではなく、昭和天皇が崩御されたため、番組が差し替えられていたのだ。奇しくも僕は「天皇崩御による番組の差し替え」などという、数十年に一度しか起こらない出来事に「業界人」としてのキャリアを締めくくってもらったわけだ。
そうして僕は「平成の明け初め」に大阪に戻り、祖父が創業し伯父が社長を務め父が専務を務める大丸タクシーに入社した。日本の社会は「昭和」から「平成」に移ろい、僕が身を置く世界は「クリエイティブ」から「タクシー業界」に変貌したわけだ。そこから「カルチャーショック」な日々が始まった。
何が最も「ショック」だったかというと、タクシー会社の内勤には「残業」という概念がないのか?と思うほどに誰も残業せずに帰っていくことだった。午後5時30分が終業時刻だったが、午後5時35分には当直と無線局員以外は、もう誰もいなかった。僕が元いた制作会社では、終業時刻は午後6時だったが、それは「営業先から会社に戻る時刻」のことであって、そこから企画書を書くなどのデスクワークや、番組収録などのスタジオワークなど本格的な仕事が始まるので「お酒も飲まずに終電で帰る」のが「普通」だった。
とはいえ、すぐに気づくのだ。タクシー業界においてはドライバーこそが「営業職」であり、現場で働くサービスマンであるわけだから、内勤職員はその「裏方さん」なのであって、そもそも残業をする必要のない仕事だと。
しかし、「この先本当にこの業界でやっていけるのか?」という不安を感じるには十分なギャップだったのだ。
感じたギャップは他にもあった。同業他社の人たちと非常に仲が良いのだ。経営者同士しょっちゅう一緒にゴルフに出掛けているし、いくつもの「協同組合」などの業界団体があって、経営者レベルでも管理職レベルでも「懇親会」的な催しが定期的に行われている。「研修旅行」と称する旅行もそれぞれの業界団体で年に1〜2回行われている。研修といっても観光であって、夜は温泉芸者を呼んでどんちゃん騒ぎ。
諸先輩方からは、過去の「研修旅行」がいかに楽しいものであったかということを延々聞かされるというものだった。この業界には「競争」という概念はないのか?と疑ったが、決してそういうわけではない。無線事業者間の「優良顧客争奪戦」は水面下で活発に行われていたし、経営者間での諜報戦などもあったのだということを後には知ったが、僕が今まで東京で経験してきたような「上質な情報を得たものが勝つ」というペーペーの営業マンでも持たざるを得なかった緊張感が、タクシー業界には希薄だと思った。
しかしそれも今にして思えば、「健全」だったのかも知れない。僕がタクシー業界に入った頃は大阪のタクシー運賃が多重化する前だったし、タクシーの「規制緩和」によって大阪が「安売り競争」の戦場となる遥か前のことだったのだから。
このように「競争」という概念が希薄で、いわゆる「護送船団方式」と言われるような規制のもとで行われていたタクシー事業に「規制緩和」によって競争原理が突然持ち込まれたからこそ、異常とも思えるような「安売り合戦」に突入してしまったように僕には思えた。振り返ってみれば当時のタクシー業界は、「規制緩和」に耐え得るほど「成熟した業界」ではなかったのだと思う。
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