Entame Theater

小説

転職物語

第7話(最終話)

私がタクシー会社を選んだ物語(わけ)

~紫月(しづき)の場合~

In Shizuki's case

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*登場する人物・団体名の一部は架空です

第1幕

野々上 紫月(ののうえ しづき)は、仕事に追われていた。
本町のオフィスビルの中層階にあるソフトウェア開発会社。だだっ広い部屋に従業員のデスクがひしめき合い、それぞれの机の上にはパソコンが設置してある。
終業時間を過ぎても、広いフロアのあちこちからキーボードを叩く音が響いている。紫月を含めて十数名が残業を強いられている。
紫月は折り畳み式の携帯電話で話している。
「今夜は行けそうにないわ。急な設計変更が入って、私のチームは残業」
電話の相手は
「あら、大変ね。じゃ、紫月は欠席ね。他のメンバーと打ち上げ始めておくわね」
「本当にごめんね。奈緒美。バンド活動最後の打ち上げなのに、行けなくて」
「仕方ないわよ。仕事優先よ。いつまでも学生じゃないんだしね」

野々上紫月は高校生の同級生で、いつも一緒にいた親友の立川奈緒美と、ロックバンドを組んでいた。
紫月はドラムを叩いて、奈緒美はギターを奏でた。
それぞれ、別々の大学に進み別々の会社に就職しても、音楽活動は継続していた。
就職一年目までの約五年で、他のメンバーは入れ替わりがあったけど、紫月と奈緒美だけはずっと残り続けた。
学生の頃はライブ活動も積極的にしていたが、働き始めてからは、バンド活動がめっきりできなくなっていた。そこで、ついにバンドを解散することにしたのだ。
その最後の打ち上げの当日、紫月に急な仕事が舞い込んできたのだった。
紫月は奈緒美に
「拓郎に、くれぐれも飲みすぎないように伝えてて」
「心配しないで、私が見張っとくわよ」と奈緒美が答えた。
拓郎とは、2年ほど前からバンドに加わったボーカルだ。紫月と彼は、バンド公認のカップルで、半年後に入籍を控えていた。

第2幕

紫月と拓郎の結婚式が来月に迫る頃、紫月は地元の西宮にある産婦人科から出てきた。最近、体の変調を感じ始め、妊娠を疑い、それの確認のために来院していた。
新しい命を授かった紫月は、そのことを一刻も早く拓郎に伝えたかった。
しかし、拓郎の携帯電話は繋がらない。何度かけても『電源が入っていないか電波の届かないところにおられます』というアナウンスが毎回流れるだけだった。
紫月は西宮の海岸通りへと、自然と足が向いていた。高校時代からの思い出の海岸だ。
近くに音楽の練習スタジオがあり、バンドのメンバーとは、その帰りによくここで反省会や打ち合わせをしていた。
紫月は、特に、ここから眺める夕陽が好きだった。

紫月が海岸に近づくと、一台の車を見つけた。
見覚えのある拓郎の車だった。
(電話が繋がらないと思ったら、こんなとこにいたのね)
紫月が声を掛けようとしたその時、助手席に自分ではない別の女性が座っていることに気づいた。
「奈緒美ー。」
車内の二人は、まるで恋人同士の雰囲気だった。仲睦まじく、はしゃいでいる。拓郎と奈緒美の顔が近づき、拓郎の腕が奈緒美を引き寄せた。 紫月は、一瞬にして奈落の底へ落とされた気がした。
ふと、奈緒美が何気なく振り返った瞬間に、目が見開いた。
慌てて車から、奈緒美と拓郎が飛び出してくる。
奈緒美が叫んだ。
「ち、違うのよ。紫月」
拓郎も続けて「誤解しないでくれよ、紫月」
二人が何を言っても、紫月には言い訳にしか聞こえない。決定的な瞬間を見てしまったのだから。
紫月は、(誤解も何も、現行犯でしょ!)と叫びたかった。
他にもいろいろな思考が頭をよぎった。
(いつからなの?あなたたちの関係は。来月には式なのよ!それに、それに、あなたとの赤ちゃんもお腹にいるのに……)
あらゆる思いの言葉が喉の奥で、怒りにかき消されていった。
今、この状況で何を言えばいいのか、紫月には分からなかった。
紫月は何も言えず、その場を立ち去るしかなかった。

第3幕

紫月は自分の部屋で、少し落ち着いてきた頭で考えを巡らせていた。
もう、こんな男とは結婚できない。だけど、授かったばかりの新しい命のことも拓郎に伝えきれていない。しかし、こんな男に、伝える必要はあるのか?
紫月は、決意した。

未婚の母になる!
この子は、私一人で育てる!

両親に相談すると、赤ちゃんを一人で育てるという紫月の決意に賛成してくれた。
先方への婚約解消の話、親類へのお詫びの連絡など、両親はすべてにおいて協力してくれた。
出産を控える時期には、産休と育休で長期的に仕事を休むことができた。
新しい命は、男の子だった。
陽翔(はると)と名付けられた。
紫月が仕事に復帰しても、紫月の母親が陽翔の面倒をみてくれた。
陽翔の寝顔を見ながら紫月は
「野々上陽翔(ののうえはると)くん、幸せになろうね」と、この子を必ず、自分ひとりで立派に育てると、毎日誓うのだった。

第4幕

時は過ぎ、陽翔(はると)が中学校を卒業する頃。大学付属の私立の高校へ進むことが決まっていた。
日本経済がデフレの不況の最中、紫月の会社でも、早期退職者を募る ことになった。
このまま、定年まで勤めても、男性社員ほどの給料にはならないことは分かっていた。この会社で、女性が男性と肩を並べるほどの収入を得るのは、まず望めないだろう。
ちょうど良い機会だ。
早期退職に応じれば、割増の退職金が入る。私立の高校・大学へと進学するには、公立よりも費用はかかる。
紫月は、早期退職に応じることにした。
これから、七年間、私立の学校でそれなりに費用がかかることを考慮した。
当面の生活は問題ないが、次の就職先を探さなければならない。
この年齢の女性が就職できて、男性と同じくらい評価されて稼げる仕事はないものかと、探し始めていた。
新聞広告、求人誌、手当たり次第に目を通した。

第5幕

大阪市住之江区、大丸タクシーの会議室。
専務の秋山が、紫月を面接していた。
「野々上さん、ご事情はよく分かりました。大変なご苦労をされてきたのですね」
「求人広告にありました『女性でも稼げる仕事』というのは本当ですか」
「タクシーの乗務員は、性別は関係ありません。真面目に取り組む方が、正当に評価されるようになっているんです」
「ぜひ、ここで頑張らせてください」
「お住まいが西宮なら、勤務地は豊中営業所では如何でしょうか」
話がまとまっていくようだ。

第6幕

紫月が二種免許を取得し、研修を終えたのち、側乗研修に入ることになった。
営業車の助手席に教官が座り、実践形式で基本的なことから応用的なことまで学ぶ。
初めての側乗研修の朝、大阪市の住之江区の本社で点呼を受ける。
点呼の際、専務の秋山が、他の乗務員に紫月を紹介する。
そこで、紫月は、目を見張った。
紫月の前に並ぶ、十数人の乗務員の中に、知った顔があった。
立川奈緒美-。
十七年振りの再会だった。
点呼が終わり、奈緒美に声を掛けようとしたが、慌ただしい出庫のタイミングと重なり、声を掛けることができなかった。
紫月の側乗研修が始まった。

第7幕

側乗研修が終わり、大丸タクシーの本社に帰庫すると、専務の秋山から呼び出しがあった。
「立川さんとは、知り合いだったのですか?」
「ええ、高校の同級生で、以前一緒にバンド活動をしていました」
「そうなんですか。立川さんは隔日勤務なので、会社に戻ってくるのが明日の明け方になるんです。さっき、この手紙を野々上さんに渡してほしいと、わざわざ戻ってこられましてね」
と言って秋山は立川奈緒美からの手紙を紫月に渡した。
「ありがとうございます。ところで奈緒美…。いえ、立川さんは、いつからここで勤務しているのですか?」
「そうですねぇ…。もうかれこれ十五年になりますね」
「そんな前からですか」
紫月が、一人で息子の陽翔を育てようと決意した「人生の選択」の頃、奈緒美にも何か決意することがあったのだろうと、思いを巡らせた。

第8幕

大丸タクシーの女子更衣室で、紫月は奈緒美からの手紙を開いた。 紫月への謝罪の手紙だった。

『私のせいで婚約が解消になってしまい、本当にごめんなさい。』
言い訳はなくひたすら謝罪の文面でだった。
『まさか紫月と同じ職場になるとは思ってもいなかったわ。もう、これ以上、紫月の邪魔をしないわ。ここで新しい人生をスタートさせて。
言えた義理ではないけれど、紫月のこと、応援しているわ』と、書き綴られていた。

これが奈緒美との最後だった。
翌日、奈緒美は一身上の都合を理由に退職届を提出していた。

第9幕

紫月は働いた。
とにかく、がむしゃらに働いた。
入社前に、専務から言われていたことが、現実に起こっていることに感動していた。
確かに性別は関係なく、真面目に取り組めば稼げるのだと分かった。
日を追うごとに、タクシーの仕事が楽しくて仕方がなかった。

息子も無事に大学を卒業し、プライム上場企業に就職することができた。
もちろん両親の協力もあるが、女手一つで、ここまで育て上げた。
ソフトウェア会社を早期退職して、大丸タクシーに就職してからの十年は、あっという間に過ぎた。
(この会社に勤めることができて、本当によかった……)と、五十歳になった紫月は、しみじみと思うのだった。

第10幕

そんなある時、難波からの乗客を西宮まで送り届けることがあった。
ジャパンタクシー型の営業車から乗客が降り、回送表示にして大阪市交通圏に戻ろうとした時、高校時代からの思い出の場所の海岸が近くにあることに気づいた。
ちょうど夕焼けの頃、「あの人生の転機」に見舞われた海岸に着いた。 海岸には、別のタクシー会社の営業車も停まっていた。その営業車には「新大阪交通」と書いてあった。
(ここは営業車の休憩スポットなんだ)と納得した。

営業車から一人の女性乗務員が、ボンネットにもたれかかり、夕陽を眺めていた。
それは、立川奈緒美だった。
紫月は声をかけた。
「まだ、この場所が好きなのね」
奈緒美は、優しく語りかけられた懐かしい声に振り向いた。
「紫月……」
「この夕陽は変わらないわね。昔から」
「そうね。ずっと綺麗だわ」
「どうして、急にいなくなったの?」
奈緒美に、突然、一身上の都合で、大丸タクシータクシーを辞めた理由を聞いた。
「私がいたら、紫月が働きにくいと思って、身を引いたの」
「馬鹿ね。私はとても楽しみにしてたのよ。奈緒美と一緒に働けることを」
「私のこと、恨んでいるでしょ」
「あの時はそうだったかもしれないけど、今はもう何もないわ。悪いのは全て拓郎だもの」
奈緒美は目を伏せて、考え込んでいた。打ち明けるべきか、迷っていた。
少しの沈黙のあと、奈緒美が口を開いた。
「バンドの最後の打ち上げからなの。紫月が欠席した。あの日の」
奈緒美がポツリポツリと話し始めた。
「紫月がいないから、拓郎が羽目を外しちゃって、私も酔った勢いもあって……」
「そんなことだろうと思っていたわ。まだ一緒にいるの?」
「あれから二年もしないうちに、別の女性(ひと)と一緒になって、どこかへ行ったわ」
「所詮、そんなどうしようもない男なのよ、あいつは」
夕陽を見ながら、紫月が続けた。
「高校時代からの親友である奈緒美との関係が、しょうもない男に壊されたってことね」
「紫月……本当にごめんね」
「もう、謝らないで。過去のことよ。私たち、もう五十よ」
「そうね、もう五十ね。早かったわ」
「奈緒美も、一人で頑張っていたのね」
照れくさそうに奈緒美は、自分の腰のあたりをさすりながら
「この年だから、体のあちこちにガタがきてるのよ。時々、新大阪の整骨院に通っているのよ。紗黄(さき)ちゃんって整体師がいてね、すごく施術が上手いの。もう他では通えないわ」
紫月もそれを受けて
「今度、私にも、その整骨院を紹介してよね」
二人はまた会うことを約束し、海岸を離れていった。
紫月は営業の続きを、奈緒美は新大阪の整骨院へ向かった。

第11幕

奈緒美と別れ、紫月は大阪市内に戻ってきていた。
何十年ものわだかまりが、一気に消え失せたようで、清々しい気持ちでいた。
思い出の海岸に行って良かった。奈緒美と話ができて良かった。
心からそう思っていた。

いつしか紫月は、大丸タクシーの本社がある住之江区を走っていた。
アプリが鳴った。
(千鳥文化のあたりね)
紫月がアプリで呼ばれた場所を把握した。

到着すると三十代過ぎだろうか、女性の乗客が立っていた。
行き先を伺い、ジャパンタクシー型の営業車を走らせた。
しばらくして、乗客が話しかけてきた。
「あれ?運転手さん、女性の方なんですか?」
大丸タクシーに勤めて、もう何百回と尋ねられた質問だった。
「はい。タクシー業界に転職して、もう十年になります」と、紫月が答えた。
「転職?運転手さん。どうして前の仕事を辞めたんですか?」
よく尋ねられる質問その2に、いつもの要領で応える。
「前の会社は、女は全然評価されない会社だったんですよ」
女性の乗客は
「私の会社と一緒だ。で、どうしてタクシー運転手に?」
紫月は少し苦笑して
「女性でも評価される職業を探しているうちに、この会社と出会ったんです。タクシー業界は女性の働きやすさで言えば素晴らしい所ですよ。本当に男女の差がないですから」
「え?男女の差がない職業?」乗客は、とても驚いた様子であった。
「やる気さえあれば、その辺の男性サラリーマンよりも給料は多いかも……。自分らしく働けて女性でも評価される職業なんですよ」
饒舌になった紫月は続ける。
「しかも自分のペースで働けるのがポイント高いです。育児しながらでも働けるんですよ。ありがたい会社です」
乗客の赤川朱美は、紫月の話にとても興味を抱いたようだった。

第12幕

~後日譚~

大丸タクシーの社長室。
専務の秋山が応対している人物は、大阪市淀川区にある「新大阪交通」の代表者だった。
新大阪交通は、紫月の親友の奈緒美が勤務しているタクシー会社だ。
新大阪交通は、大阪では古い部類に入るタクシー会社である。タクシーの台数は三十台未満の小規模な会社だった。日本のほとんどのタクシー会社は、三十台未満の規模の会社である。
大正時代から続いているタクシー業界は、何度目かの転換期を迎えていた。
どこの企業でも、新しい波に乗ろうと努力するが、体力のない企業は自然と淘汰されていく。新大阪交通も、淘汰されようとしている企業の一つだった。
そんな折、外資系のIT関係の企業が、大阪の小規模のタクシー会社の買収に乗り出してきていた。新大阪交通にもオファーがあった。外資系の企業は、なかば強引に、足元を見るような提案をしてくるのだ。
新大阪交通の代表者は、懇願するように話す。
「訳の分からない外資のIT会社に乗っ取られるなら、大阪で長年の信頼が厚い大丸さんに、吸収していただけないかと考えておりまして」
秋山は、そっと目を閉じて、腕組みをした。



終幕



*背景に使用している画像は生成AIで作成しています