小説
転職物語
第5話
私がタクシー会社を選んだ物語(わけ)
~葵(あおい)の場合~
In Aoi's case
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*登場する人物・団体名の一部は架空です
第1幕
ここはアフリカ大陸の某国。深夜の日本人居住区のとある一家。
青谷 実(あおたに みのる)は国際電話が繋がるのを、そわそわしながら待っている。
遠くで雷鳴のような爆発音が響き、時折、街中に銃声が響く。
漆黒の闇の中に、赤く炎が上がる。某国の国会にあたる建物が燃えていた。
電気の消えた部屋で実(みのる)は、じっと不安に耐えている。電話が繋がるまでの間が、とても長く感じられた。
やっと繋がった電話に安堵の表情を浮かべたが、すぐに切羽詰まった口調に変わり妻の葵(あおい)に言葉をかけた。
「葵。こっちは、一晩で危険な状態になった。日本へ帰る」
「あなた、大丈夫?」
普段ではありえないほどの緊張した夫の口調に、一瞬で状況を把握した。
遠く日本の自宅で夫の帰国を待つ葵は、娘の蘭(らん)を抱きしめて夫の声を聞いていた。
第2幕
青谷 葵は、スマホをテーブルに置いた。
夫からの緊急事態を告げる内容に、かなり動揺していた。
幼稚園の卒園式を控えた娘の蘭は不安そうに母親を見つめていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
葵が以前勤めていた「天神商社」は、梅田のオフィス街の外れ、大川沿いの雑居ビルにある。
最後の出勤日の業務後に、同じ部署の仲間がささやかな送別会を開いてくれた。
同僚の赤井朱美が言った。
「長い間お疲れ様でした。葵。元気でいてね」
同じく同僚の夏樹渚沙も葵の事を労いながら話した。
「私より早くいい旦那を見つけて結婚だなんて、本当に羨ましいわ」
葵は感謝の言葉を述べて、長年お世話になった部署の一人一人に声を掛けた。
係長の吉田は
「たまには、遊びに来いよ」
葵は結婚退職するのだった。
相手の男性は、天神商社と付き合いのある貿易会社の営業マンである青谷実だ。
数年前から仕事を通じて知り合い、付き合い始めていた。
実は仕事ができるやり手営業マンだった。貿易会社でも順調に出世街道を進んでいた。
葵が退職して、平穏な日々が続いていた。
長女の蘭を出産してしばらく経った頃、夫の会社での立場が危うくなり始めた。
やり手営業マンということは、それなりに政敵も多い。周りでは夫の足元をすくおうと権謀術数の数々が仕掛けられていた。なりふり構わず、我こそがトップ出世したいという営業マンばかりだった。
夫は、穏やかな性格で、普通に暮らせていければいい、という考えの持ち主。出世争いには全く興味はない。
そんな優しさが、甘さになり、成績優秀だった夫に、同僚たちの妬みがあからさまな態度になって現れるようになった。
仕事はチームワークであるが、周囲の協力を得られず孤立する日々が続いていた。
そうなると成績もふるわない。次第に出世レースから完全に外れてしまっていた。
そんな時、海外支店への異動辞令が出た。
東南アジア、中東、アフリカの辺地の支店を転々とした。
海外での水や食事が合わず、体重は激変していった。体重が減り出すと、体力もそうだが気力も失せていった。何をやっても裏目に出る。仕事がうまくいかない日々が続く。
そんな苦境の中の夫を、さらに苦しめる事件が起こった。
アフリカの某国の支店に滞在中。昨日から今日にかけて、この国で政変が起きたのだ。軍部によるクーデターだ。
一夜にして内戦状態になった。一昨日までは、とても平和な町だったのに、一瞬で様相が変化したのだ。
家の使用人たちは既に逃走しているので、詳しい状況もつかめずにいる。
日本人居住区の近隣の住人たちと協力し合い、隣国へ出国し、日本への脱出を図ることになった。
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葵は蘭を抱きしめながら、夫の無事を祈るばかりだった。
第3幕
葵は少しずつではあるが、夫の現状を把握できていた。
会社の人事部の担当者から、逐一電話で情報が入ってきていた。
人事部の担当者の女性はとても、親切に親身になって寄り添ってくれていた。
夫からの電話があった翌日の朝。人事担当者から新しい情報の連絡があった。
夫はどうやら無事に国外へ脱出できたようだった。ヨーロッパ経由で、日本へ帰ってくる予定だと聞かされた。
葵は、安心すると涙が溢れてきた。
第4幕
葵の運転するアルファードから、葵に続いて蘭と実が降りてきた。
蘭の通う幼稚園の卒園式だ。
蘭が幼稚園に通い始めてからは、夫の実の身辺が急に慌ただしくなり、海外転勤が続いた。蘭が父親と会う機会が少なかったのは、とても悔やまれる。
しかし、こうして卒園式を前に、夫が帰国した事は不幸中の幸いと言えるだろう。
幼稚園には、そろそろ桜が咲き始めている。
夫は葵に
「本当に、良いタイミングで帰国できたな」
4月になれば、蘭は小学一年生だ。娘の人生の節目を夫婦で祝福できるのだ。
ありがたいことだと葵も夫もしみじみ感じている。
葵と夫と蘭は足取りも軽く幼稚園の門をくぐっていく。
夫が帰国してから2週間。夫は休職中だった。人生で味わったことのない、また、これから日本では絶対味わうことのない『恐怖』がトラウマになっていた。
家では、葵や蘭に対して平静を装っているが、心ここにあらずで視線が落ち着かない様子を、葵は時々見かけていた。
ある日、葵が買い物から帰ってきたら、リビングで夫がノートパソコンで求人サイトを閲覧していた。
夫は帰って来たばかりの葵に声をかける。
以前から相談していたことについて、心を決めたらしい。
「今の会社、やっぱり辞めようかと思っているんだ」
「これだけ辛いことがあったんだもの、当然よ」
「日本でも海外でも、いい環境とは言えないよね。とても人間不信に陥っているよ。家にいる時が一番安らぐよ」
「辞めてからしばらくゆっくりしたら?」
「それが、さっき仕事関係の取引先で、運送会社の知人から電話があったんだ。休職中だと聞いて、心配になって連絡くれたんだ」
葵は相槌を挟んだ。
夫は続けて
「彼の運送会社の話をいろいろ聞いていたら、何だか面白そうなんだ」
「配達の仕事?」
「長距離ドライバーの仕事なんだ。基本的に、一人で黙々と走り続けるんだけど、日本全国飛び回るから飽きないそうだよ」
「周りの人との軋轢がないってこと?いいじゃない」
「僕の性格からしたら、理想の仕事だよ」
「あなたが決めたんなら、私は大丈夫よ」
「彼の会社に行って、一度話を聞いてくるよ」
第5幕
夫が長距離ドライバーになって安定した生活が戻ってきた。
しかし夫は一度仕事に出かけると、2、3日は帰ってこない。
収入は、以前の会社よりも何割か減ったが、実が笑顔で仕事に出かけるのを見ていると、葵はそれが何よりだと思っている。
葵は家計の足しになればと何か仕事を探そうかと考えている。
蘭を学校に送り出してから、数時間しか働けないが、何もしないよりは気分的に楽になる。しかしこれといった仕事が見つからない。
葵には特技があった。写真撮影である。好きが長じて特技になったのだ。
商社勤めの頃から、趣味でインスタを続けている。
ことあるごとに、こまめに更新する。
小物、食事、風景など、スマホを使いセンス良く撮る。
葵の技術力を見込んで、撮影依頼のDMも届いていた。
しかし撮影の仕事は不定期すぎて、収入の当てにならない。
何か時間の制約を受けずにきちんと稼げる仕事はないものかと、求人サイトを閲覧する日々だった。
第6幕
葵は、撮影用の小道具の買い出しに出ていた。
数軒の商店を回るので、自家用車のアルファードで出かけたかったが、ちょうど車検と重なったので、今日は電車で移動だ。
両手いっぱいの紙袋を提げて本町駅を出る。
意外と荷物が多くなり、電車で帰るのが億劫になって、タクシーで帰宅することにした。
タクシーを呼ぶためにスマホを取り出してアプリを開く。
5分も待たずにタクシーが到着した。
黒い車両に朱色の正円の中に「大」の文字が描かれたタクシーが、葵の前で停まった。
運転手が出てきて声をかける。
「青谷さんでいらっしゃいますか?」
運転手は言い終わらないうちに驚嘆の声に変わり言葉を続けた。
「ああ、あの青谷さんだったんですね!!」
葵も見覚えのある顔にびっくりして
「ええ!?紗黄さん?」
タクシー乗務員は、葵が以前に通っていた整骨院の女性整体師であった。
数年前から葵は、出産、子育てと、人生で初めての慣れない生活に肩が凝る日が続いていた。蘭を幼稚園に預けてからの時間は、近所の整骨院に通っていた。
その整骨院は、ここ数か月前に突然閉店したので、それからはどこにも通っていない。
葵の自宅へ向かいながら、大丸タクシーの車内は昔話に花が咲いた。
葵は、紗黄の転身ぶりに驚いていた。
第7幕
自宅の一室で商品カットの撮影に勤しんでいる。
撮影の合間に、葵は紗黄との車内での会話を思い出していた。
紗黄は言っていた。整骨院の常連で、葵も知っている女性タクシードライバーの立川からの影響もあったから、躊躇なく転職できたのだと。
立川は、とても楽しそうにタクシーでの出来事を話すが、決して会社の愚痴は言わなかった。立川の話を聞いていたオーディエンスは、知らず知らずのうちにタクシー運転手は楽しい仕事だというイメージが刷り込まれていったようだ。
葵も横のベッドで施術を受けながら、立川の仕事の話を聞いていたオーディエンスの一人だった。
元整体師の紗黄の言葉が一言一句蘇ってきた。
『不安もあったんだけど、実際にやってみたら意外と楽しいんですよ。勤務時間も融通をきかせてくれるのよ』
紗黄の言葉で決定的な一言が
『意外とこの仕事は、自由で稼げる仕事なんですよ』
葵の頭の中でリフレインしている。
そして、思い出したかのように部屋にシャッターの音が響き渡った。
第8幕
葵が大方の家事を終えた夜。夫がポツリポツリと話し始めた。
長距離ドライバーの会社に勤め出して数ヶ月。
最初の頃は目新しさもあり、楽しく仕事ができていたが、数ヶ月も経つと体力的に辛くなってきたのだ。
このまま、年齢を重ねていくと、いつまでも働けるものではないとも感じていた。
また、一度仕事に出ると、2、3日は帰宅することができない勤務形態は、小学校低学年の蘭には悪い影響があるのではないかとも思い始めていた。
「すぐにではないが、転職することも考えている」
夫は打ち明けた。
葵は自分も、新しい仕事を探そうかと思い、いろいろと調べているのだと打ち明けた。
第9幕
大阪市住之江区北加賀屋。大丸タクシーの会議室。
専務の秋山が扉を開けると、葵が座っていた。その横には夫の実の姿もあった。
葵が採用募集の応募に問い合わせた時に、タクシー乗務員とは、どんな仕事で、本当に稼げるのかなど『一度、詳しい話を聞きに来られたらいかがでしょうか』と、秋山が提案したのだ。
『色々な職種を選ぶ選択肢の一つとして、当社のことを知って頂き、タクシー乗務員の仕事に、少しでも不安がないような状態で、ご一考いただければと思います』
本格的な面接の前に、こういった機会を設けるのは、秋山ならではの心配りである。
『話を聞いて納得してから、正式に応募ください』とも言ってくれている。
それで、こうして夫婦揃って来社したのだ。
とりあえず話だけの今回の面談ではあるが、しかし葵はここで働きたくて、とてもワクワクしているのだ。
大丸タクシーには、タクシー乗務員の魅力を教えてもらった紗黄がいる。
きっと、もっともっとタクシー乗務員の魅力を教えてくれるはずと考えている。
そして、葵にとって懐かしくて嬉しいサプライズもあった。
商社勤めしていた頃の元同僚の朱美が大丸タクシーに勤務していたのだ。
葵は期待に胸を膨らませながら秋山の話を聞いていた。
終幕
*背景に使用している画像は生成AIで作成しています