小説
転職物語
第4話
私がタクシー会社を選んだ物語(わけ)
~緑音(みお)の場合~
In Mio's case
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*登場する人物・団体名の一部は架空です
第1幕
大阪の老舗のタクシー会社、大丸タクシーの女子更衣室。
緑音(みお)は扉を開けた。
熟年の先輩が着替えを終えたところだった
「あら、緑音ちゃん。おはよう」
緑音は先日の件を詫びた。
「お姉さん、この間はびっくりさせて申し訳ありません。」
緑音は、熟年先輩の野々上(ののうえ)のことをお姉さんと呼んでいる。血のつながりのある姉ではない。親しみと尊敬を込めて、そう呼んでいるのである。
先日こうした一件があった。
熟年先輩の野々上が、元整骨院で働いていた同僚の紗黄に、肩をほぐしてもらっている時に、痛気持ち良くて思わず声が漏れたのを、扉の外で緑音が聞いていて慌てて飛び込んできたことがあった。
「いえいえ、こちらこそ、変な声を出しちゃって、ごめんね。びっくりしたわね」
野々上は、緑音のまっすぐで純朴な一面にとても好感を抱いている。
「まだ、肩の調子悪いんですか?」
「この年になると疲れはなかなか取れなくてね」
「お姉さんは、まだまだお若いですよ。うちの田舎の周りには、年の割には老け込んだ人ばかりですからね」
「嬉しいこと言ってくれるわね」
第2幕
緑音の実家は岡山にある。大阪に出てきて5年ほどになる。
地元の大学を卒業して、学生時代に付き合っていた男性と結婚。夫は内装工事の会社に勤務している。地元ではそれなりの企業だった。
結婚してほどなく、夫の会社が大手の建築会社に吸収されることになった。夫は大阪に職人として転勤することになった。もちろん緑音も一緒に大阪に出てきた。
慣れない大阪でも、生活は苦にならなかった。逆に便利すぎる街だと感じている。24時間、街が動いている大阪市内では、いつでも何でも手に入る。すぐに新しい生活には慣れたようだ。
第3幕
しばらくは順調な生活が続いたが、夫の会社でリストラの計画が進んでいた。
勤め先の建築会社で、かなり大きなテコ入れが必要になったのだ。数年前からの新しい事業が軌道に乗らずやむなく一部門を縮小することになった。
緑音の夫はリストラの対象となった。
若いから、次の仕事がすぐ見つかるだろうという理由だった。
数ヶ月後に退職。その後、社会の厳しさに直面することになる。
次の仕事がなかなか見つからないのだ。
岡山に戻ることも考えたが、地元では、大阪よりも就業先の数が多いわけでもない。大阪で新しい仕事を見つける方が簡単だと夫は言った。
しかし、仕事は一向に見つからず、無駄に月日が過ぎていくばかりだった。
緑音も、生活を支えるために仕事を探すことにした。
第4幕
緑音は、天王寺駅のタクシー乗り場からタクシーに乗った。
なんとかパート先を見つけ面接を受けることになった。しかし、あまり聞きなれない不慣れな地域だったので、タクシーで移動することにした。
タクシーは女性の乗務員だった。
「大丸タクシーの野々上(ののうえ)です。どちらまで参りましょうか?」
「モトマチまでお願いします」
大丸タクシーは走り出した。
走りながら女性乗務員は
「元町のどの辺りに参りましょうか」
「ヒサタロウチョウ?…。と読むのですか」
緑音は読み方が分からずしどろもどろに答える。
乗務員は、タクシーを左側に停めて、住所を確認する。
「ああ、最寄り駅はホンマチね。それで、これは久太郎町(きゅうたろうまち)ですね」
「そうなんですか?モトマチではなくホンマチ」
「そう読めなくもないですけど。地名は難しいですからね」
「すみません。岡山から出てきて2年になるんですけど、まったくこの辺のことは知りませんでした」
「あら、岡山なんですか。私もそうなのよ」
地元話に盛り上がる車内であった。
女性乗務員の野々上は、名前はまだ知らないが緑音の純朴さと素直さに、とても好感を抱いた。
第5幕
緑音の仕事は決まったが、夫の仕事がなかなか見つからない。
職種を広げて探してみる。
しばらくして、緑音がパートの仕事から戻ると夫が見慣れないスーツを着て出かけるところだった。
「緑音、仕事が見つかりそうなんだ。飲食店で夜の仕事だけど、頑張り方次第で給料も良いみたいだ」
「良かったわね」
「じゃ、ミナミまで面接に行ってくるわ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
夫の新しい就職先はミナミのホストクラブだった。
緑音と夫の生活パターンは真逆になった。
朝、緑音が起きる頃に夫が酒と香水の香りを漂わせて帰ってくる。
ろくな会話もしないうちに夫は寝入ってしまう。
そんな生活が続く。
夫の服装は次第に派手になり、帰宅時間も遅くなり始めた。
緑音がパートに出かける時間になっても帰ってこないこともしばしばあった。
ついには、家に戻らずにそのままホストクラブに出勤するようにもなった。
洗濯物も緑音の知らないシャツや下着が増えていた。
夫の行動が、怪しいと思いつつも、ひた向きで純朴な緑音は、聞き出せずにいた。
内心、夫が浮気しているのかとも感じている。
そもそも、夫が帰って来ないので、問い質すこともできないのではあるが。
第6幕
緑音がパートの帰り道。
夕方の空は今にも降り出しそうな雲行きであった。
久太郎町から駅に向かって歩く。
「傘持ってきたら良かったかな。急いで帰ろう」
緑音たちが住んでいるマンションの前に、見慣れない女性が立っていた。
女はとても派手な服装で、緑音のことを威圧的に睨み付けていた。
「あんたが緑音?」
いきなり名前を呼ばれて驚いて足を止めた。
女は続けてまくし立てた
「タカシは、あんたのこと、うざがってるんよ。もういい加減に気づいてるよねタカシと私のこと」
タカシとは夫の名である。
女は続けて
「そろそろ、タカシを自由にしてやってよ」
緑音は戸惑いながら
「どういう意味です?」
「鈍い女だね、だからタカシに嫌われるんよ。さっさと別れてやりな、ってこと!」
「え!何を言ってるのか分かりません。ちゃんと夫から話を聞かないと」
「だからタカシは、それがうざいってんだよ。ほら、これにサインして」
と、女はカバンから一枚の届け出用紙を出した。
受け取った緑音は、用紙を見て愕然とした。
離婚届だった。既に夫の欄は記載され、押印済みであった。
女は
「それが答えだよ」
うすら笑いを込めて言った。
突然の修羅場に緑音は、涙も出ない。どうしていいか分からない。
言葉も出ない。
女は吐き捨てるように言った。
「その用紙、すぐに出しといてよ!」
女は踵を返し歩いていく。
緑音は呆然と立ち尽くした。
雨が降り出してきた。
頬を伝う雨なのか、涙なのか分からずに立ち尽くしている。
第7幕
雨の中を行くあてもなく、ふらふらと歩いている緑音。
傘もささずに、ただふらふらと。
何も考えられない。思考停止の頭。
ただ、道をあてどなく歩いている。
背後から一台の車が近づいてきた。
傘もささずに、一人歩く緑音の様子を伺っている。
車はゆっくりと緑音の横を通り過ぎる。
中から運転手が緑音を観察している。
緑音の前方で車は突然停まった。
中から運転手が出てきて声をかけた。
「岡山のお客さん?」
懐かしい『岡山』という音の響きに緑音は顔を上げた。
そこには、面接の前に、乗ったタクシーで、岡山話に盛り上がった女性乗務員がいた。
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雨が降り出し、タクシーは忙しくなる時間帯だ。
しかし、野々上は奇妙な光景を見た。
雨の中傘もささずにふらふらと歩いている女性がいるのだ。野々上は、ずぶ濡れの女性を見かけて、心配になって様子を伺っていたのだ。
運転席から女性を覗き込む。どこかで見かけた顔を思い出すのに、そんなに時間はかからなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
野々上は傘をかざして、緑音にタオルを渡した。
とても深い事情があることは、すぐに察しがついた。
「どう?温かいお茶でも飲まない?」
緑音は力なく頷いた。
第8幕
ファミレスの駐車場に営業車を停めて休憩に入る。
野々上は、営業車に積んであった自分のジャンパーを緑音に着せた。
温かい飲み物とパンケーキが運ばれてきた。
少しずつではあるが、緑音の顔色が良くなってきた。
落ち着いたころ野々上は尋ねた。
「もし、話してもらえるなら聞かせて」
同郷のお姉さんである野々上には、安心感を感じていた。
ゆっくりではあるが身の上話を始めた。
夫のこと、浮気のこと、初めて経験した修羅場の事。
野々上は慈愛に満ちた表情で
「まだ若いのに、ひどい修羅場を経験したのね」
緑音の遭遇した出来事に、慰めるように優しく声を掛けた。
とても純朴で素直な彼女に、よくもこんな酷い仕打ちをする男がいるものだと思った。
緑音はカバンから例の届け出用紙を出した。
「ここまで用意されていたなんて、私ショックです」
「そうよね、そんな男はさっさと捨てなさい」
「捨てる?」
「そうよ、こっちから捨ててやるのよ。そんなクズ男はゴミ箱にでも捨てる気持ちで捨てるのよ。ポイって」
「ポイって……」
緑音の表情に少し笑みが浮かんだ。
笑みを見て野々上は安心して続けた。
「あなたはまだ若いわ。これから色々な可能性があるわよ」
野々上は、純朴で素直な緑音なら、必ず良い人生が待っていると確信した。
しばらく二人はファミレスで話し込んだ。
自己紹介から始めて、今後の人生相談。
緑音にとって、野々上は人生の先輩だけあって、とても的確に優しくアドバイスしてくれた。
二人は連絡先を交換した。
「緑音ちゃん、家まで送るわ。」
第9幕
ほどなく緑音は離婚届を役所に提出した。
スマホは、元夫の連絡先も想い出も全て削除した。
緑音は離婚後も、野々上とは度々連絡を取り合っていた。
野々上は、大阪で唯一信用できる同郷のお姉さんだ。
緑音は、パートの収入では心もとないので、本格的に就職先を探し始めた。
もちろん、就職先は野々上お姉さんに相談した。
終幕
*背景に使用している画像は生成AIで作成しています