小説
転職物語
第3話
私がタクシー会社を選んだ物語(わけ)
~紗黄(さき)の場合~
In Saki's case
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*登場する人物・団体名の一部は架空です
第1幕
大阪の老舗のタクシー会社「大丸タクシー」の女子更衣室。
女性乗務員の朱美、その大学時代からの友人の橙花(とうか)、最近入社してきた新人乗務員の紗黄(さき)3人が、始業前の雑談に花を咲かせていた。
雑談と言っても、乗務員にとって重要な情報交換も兼ねている。
会社を出たらタクシーの車内では、一人で業務をこなす以外になく、誰かが一緒にいて手助けしてくれるわけもない。だから、業務の前後の雑談は、重要な情報収集の場になるのである。
この3人の中で、一番先輩である朱美は
「研修でも言ってたけど、やみくもに走ってもだめね。戦略的に走らないと」
アプリの鳴りやすい時間帯、地域の特性、観察と振り返りが重要だと力説する。
「フォローアップ研修で堀江さんも、同じようなこと言ってたわ」
橙花も相槌を打つ。
「大丸タクシーの有名人の阪口さんの話も聞いてみたいわね」
朱美が、大丸タクシーのトップドライバーの名前を挙げた。
紗黄は、何でも吸収しようと懸命に聞き入っている。
第2幕
大阪市内の幹線道路を朱色の正円に「大」の字のロゴマークが描かれたタクシーが走っている。
運転席の紗黄は呟く
「おかしいなぁ、いつもはこの時間この辺りでアプリが鳴っているんだけどなぁ」
本社を出発して、そろそろ3時間。昼の休憩も見えてくる時間になっても、なかなか乗客を乗せることができないでいる。
紗黄の頭の中で先輩ドライバーがYouTubeで話していたセリフが蘇ってきた。
トップドライバー3人のトークで、その中の1人の久米先輩の台詞
『人の流れは数ヶ月で変わるからなぁ・・・』
また別のYouTube動画で、当時の新人ドライバーたちのトークセッションで、本村先輩の台詞
『あかん時は淀川を越えてみる』
普段、乗り番が違えば、なかなか社内で合わない先輩たちのYouTube動画で振り返ることができる。先輩たちの経験値から出る言葉には重みがあった。
「いっちょ越えてみるか!」
紗黄は少し吹っ切れたように清々しい表情でハンドルを切る。切った先の交差点で、手を上げて紗黄のタクシーを呼ぶ初老の女性がいた。
「気持ちの切り替えは大事だな」
紗黄は呟いた。
第3幕
業務終わりの女子更衣室。
「ゔっ!」
熟年先輩の乗務員から、痛気持ちいい声が漏れる。
扉の外からそれを聞いた女性乗務員の緑音(みお)が、ノックもそこそこに勢いよく扉を開けながら声をかける。20代後半の緑音の動きは素早かった。
「大丈夫ですか?何があったんですか!」
更衣室では、熟年の乗務員が椅子に腰かけて、背後から紗黄が肘を使って先輩の肩をマッサージしていた。
先輩乗務員は「ああ、緑音ちゃん。心配しないでね」
マッサージを続ける紗黄は
「緑音先輩、お疲れ様です。」
緑音は、紗黄の本格的なマッサージに少し驚いている。
熟年先輩は続ける。
「紗黄ちゃん、前は整骨院で働いていたんですって」
紗黄も
「柔道整復師やってました」
緑音は
「じゅうどう…?」
緑音は聞きなれない言葉に戸惑う。
熟年先輩は
「整体師やマッサージ師とかの正式名が柔道整復師っていうのよ。とにかく、紗黄ちゃんは、この年老いた私の体にはとても効くのよ。本当に上手いわ。お金払うわ」
「いいですよ。そんな」
紗黄は自分の技術が褒められたのが嬉しかった。
紗黄と同じ20代後半の緑音はポカンとした顔で
「そんなに人によって違うものなんですか」
熟年先輩と紗黄は同時に
「そりゃそうよ」
第4幕
数ヶ月前。
紗黄は新大阪からほど近い住宅街の中の整骨院で働いている。
近隣住民はもちろん、新大阪のビジネスマンたちも、休憩時間や退社後に立ち寄れる立地の良い人気店だ。
こじんまりした店で、院長の他に柔道整復師は紗黄ともう一人。あと受付事務の女性で運営していた。
40代の院長は、やり手で2カ月先にもう1店舗を開店する予定だ。
その準備もあり、整骨院は紗黄たちに任せきりの日がほとんどである。
いつものように紗黄はマッサージしながら世間話をしていた。
常連の患者さんで、タクシー乗務員の女性がいた。
割と時間が自由に使える職業なので、昼間の患者の少ない時間帯によく利用していた。
「最近、なかなか背中の凝りが取れなくてね」
女性乗務員の立川はため息交じりに吐き出した。
紗黄は「立川さん、何言ってるんですか!まだまだお若いですよ。マッサージすればすぐにほぐれるのが証拠ですよ。」
紗黄はこの時はまだ、タクシー乗務員になることも想像もしていなかったので、立川の話は世間話程度に受け止めていた。
ただ、タクシードライバーという仕事については、女性でも男性と同じように働けて、時間にも結構融通が利く職業だという印象くらいしか持っていなかった。
紗黄は微弱の電気が流れる椅子を用意しながら、女性患者を促した。
「さ、立川さん、次はこちらですよ」
「これこれ、これが効くのよね。紗黄ちゃん、今日は調子良いから少しきつめでお願いね」
「承知しました」
第5幕
そんな紗黄の普段の生活が突然終わることになる。
休日を普段通り過ごして、週が明けて医院に出勤すると、見慣れたタクシーが停まっていた。
常連の患者の立川が扉の前に立っている。
「どうしたんですか?立川さん」
「あら、紗黄ちゃん。出勤しているってことは、このことは聞いてないのね」
「何がですか?」
立川がそっと体の位置をずらし、扉に張り出してある告知を紗黄に見せた。
『誠に勝手ながら、本日をもって当医院は閉店致します。患者様には誠にご不便をおかけいたしますが、何卒ご了承くださいませ。----院長』
張り紙を読み終えた紗黄は
「わけが分かりません。どうして突然に・・・」
立川は慰めるように
「本当に突然よね。紗黄ちゃん大丈夫?」
「突然過ぎて何も考えられません」
人はそんなものである。
考えもしないことに直面すると、何も考えられなくなる。
立川は続ける
「さっきね、常連の河合さんが言ってたのよ。」
河合は立川と同じこの院の常連患者である。この地域の住民である河合は、地元の情報通で有名な患者である。
院は地元の情報交換のコミュニティの場にもなっている。
立川は続ける。
「どうもここの院長は、違法行為をしていたようなのよ。」
紗黄は思い当たる節がある。院長と受付事務の女性は、業務が終わってからもレセプト(診療報酬明細書)の入力に時間がかかっていた。一日に十数人しか来ない院なのに、そんなに時間のかかる煩雑な仕事なんだと理解していた。
休み前の週末は給料日だった。いつもと違い、現金を袋に入れて支給されたのを、振り込みの時間がなかったからと思い込んでいた。
立川は
「河合さんはね、この程度の大きさの整骨院が、早々に2店舗目を出すなんて怪しいと思っていたそうよ。」
「院長は違法行為で捕まる前に、逃げたってことでしょうか?」
「そういう事でしょうね。紗黄ちゃんも可哀そう。給料は貰ったの?」
「先週末に、現金で支給されました。いつもは振り込みなのに。」
「やっぱり、いつもと違ったんだ。」
紗黄はそんなことよりも、今日から働ける所がなくなったという事実が、受け止めがたいものだった。
立川は紗黄に心配そうに声をかける。
「紗黄ちゃんなら、すぐ次の働き口が見つかるわよ」
第6幕
院からの帰り道、新大阪駅の喫茶店で紗黄はため息をついていた。
まだ、にわかに信じられないでいる。
しかし、とりあえず次の仕事を探さなければ生活していけない。
スマホにインディードをダウンロードして登録する。
まったく転職なんて考えていなかったので、希望の職種も検討がつかない。
表示される求人を何気なく眺めているうちに時間だけが過ぎていく。
(もうこんな時間か…)
結構長居してしまった。
店を出て新大阪駅の構内を歩いている。
相変わらず新大阪駅は、観光客やビジネスマン・ウーマンで溢れている。
今日は学生も多い。
その中で、ひときわキラキラした雰囲気を醸し出している4人の女性がいた。
楽しそうな会話に引きずられて、傍を通りかかる。
日本人と外国人の友達同士の会話だろう。
聞きなれない英語が4人の間を飛び交う。
その中で、一つのワードだけ、スッと耳に入ってきた。
足を止めて、スマホでインディードを開く紗黄。
(やっぱり気になってたんだ、このワード…)
全く気に留めていなかったつもりだったが、繰り返し立川の話を聞くたびに影響を受けていたのだ。頭の中で自分が働いているシュミレーションができていたのだ。
自分の道が見えた気がした。
第7幕
とある北加賀屋のバー。
朱美と橙花と紗黄が親睦を深めるために、仕事明けに立ち寄っている。
紗黄の前職での突然の出来事を聞いた朱美と橙花は慈愛に満ちた表情になっていた。
朱美が慰めるように
「紗黄ちゃん、大変だったんだね」
橙花が怒り交じりに
「なんて院長なのよ!訴えてやるわよ!」
話は盛り上がる。
朱美がふと紗黄に尋ねた。
「で、紗黄ちゃんは、どうしてタクシー乗務員になったの?」
紗黄は、自分の考えを巡らせた。
患者さんにタクシー運転手の方もいて、いろいろ話は聞いていたから抵抗感はなかったが選択肢の一つでもなかった。
「院が閉店して、新大阪駅の喫茶店でインディードを見ていたけど、自分のやりたい仕事が見つからなくて。
喫茶店を出たら、とてもキラキラしている4人の女性の方がいて、日本の女性が、外国の友人と話していて、何か、とても感謝されていて、ふと『タクシードライバー』ってワードが耳に入ってきたんです。続けて、『アメイジング』とか『エキサイティング』と。
『タクシードライバー』ってワードで気づいたんですが、それも良いかもって。整骨院の患者さんの話を繰り返し聞いていて刷り込みができていたのかも知れません。スッと降りてきたんです。タクシードライバーをしている私の姿が。その場でインディードを開いて、大丸タクシーがあって……」
紗黄の話しが終わるか終わらないかのタイミングで
橙花は、自分を指さして叫んだ。
「きっとそれ、私!かも!」
終幕
*背景に使用している画像は生成AIで作成しています